雑文発散

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過去の日記

2012-12-31 [長年日記]

[] 12年+αを勤めた会社を退任(退職)しました

本日(2012年12月31日)をもって、12年間+αの割と長い期間を勤めていた会社の役員を退任しました。任期満了の時期と僕の希望によって、このタイミングになりました。

仕事関係だったり、コミュニティ関係だったり、またはその両方の属性だったりした方にはいろいろとお世話になりました。本当にありがとうございました。

この日記でも仕事のことは何度か書いてはいますが、一貫して社名は表に出していませんでしたので、ここでも記述はしません。まぁ、他の SNS やらなんやらの情報を組み合わせれば特定できちゃいますけどねー。

まぁ、いい機会なので、ちょっと人生を振り返ってみたいと思います。話は今回退任(退職)した会社のひとつ前の会社からになります。

ひとつ前の職は、秋葉原の電気屋でのアルバイトでした。高校を卒業して浪人して、ちょっとお金が欲しくなってアルバイトを始めたら、お金が貰えることが(そして使えることが)楽しくなってしまって、大学受験をやめてしまいました。そのまま10年以上勤めたのですが、最後の方では仕事に面白みを感じられなくなり、2000年8月に辞めました。

アルバイトの期間中には、X68000 を買ったり、モデムを買ってパソコン通信を始めたり、Amiga を買って洋ゲーとか Mac エミュレータとかで遊んだり、Mac エミュレータでは動作しないものがあったので本物の Mac を買ったり、草の根ネットや NIFTY-Serve でワイワイやったりしていて、現在の僕の下地になるものがガッツリ育成された時期がこの頃です。

また、この期間には、漫画家・藤原カムイさんの「福神町綺譚」という作品に参加していました。福神町綺譚は読者参加型の「インタラクティブコミック」を実現した意欲作で、読者が「福神町」という架空の町へ住民登録して、作者と一緒に物語を作っていくというものでした。企画の当初は、まだインターネットが個人には手が届かなかった時代だったので、NIFTY-Serve のパティオで作者と読者がアイデア出しをしていました。

一定のアイデアがまとまった後、ウルトラジャンプ誌で「福神町綺譚」が連載されました。マンガの後には毎号必ず「福神町通信」というサポートページが付属していました。制作側からのメッセージと読者のアイデア紹介などの情報ページです。この「福神町通信」の毎号の企画とライティング(文章作成)を僕が担当していました。

「福神町通信」は全ページ(といっても2ページ)が手描きで写植などは使っていませんでしたので、僕が書いた文章を、毎回相棒が手でカリカリ描いていました。また、藤原カムイさんに「こんなイラストがあると良い!」とお願いして、これだけの為のカットを描いて貰ったりして、いま考えると、かなり贅沢なことをしてましたね。

この他に福神町の「住民登録」のサポートも行なっていました。

住民登録は、毎号の「福神町通信」に「住民登録証」が描かれており、これを切り取って編集部へ応募することで「住民」としての登録が完了する方式を取っていました。

住民登録証には、それぞれの名前や職業などのプロフィールを記入する欄があります。藤原カムイさんがそれらの住民のプロフィールを見て「これは!」と思った人々をマンガの中へ登場させたりして、作品に反映していました。

ただ、まぁ、これ、初期の管理は「紙ベース」だったんですよ。

このままでは破綻するなぁと思ったので、送られてきた紙の住民登録証を元に、ファイルメーカーで住民データベースを僕が作りました。それを藤原カムイさんへお渡して、住民の検索に利用して貰いました。

ちょうどこの頃、インターネットが身近になり始めたため、ファイルメーカーで作成した住民データベースを Web で公開できると良いのかなぁと思って「シーラカンス本(PC UNIXユーザのための PostgreSQL完全攻略ガイド)」と「マンモス本(PHP徹底攻略)」を購入したのが、Web エンジニア(当時はそんな言葉無かったけど)としてのスタートでした。

Linux 自体は、この少し前から触っていたので特に抵抗は無かったのですが、PostgreSQL に関してはファイルメーカーとの概念の違い(RDBMS vs カード型DB)があり、なかなか理解できずにいたのを覚えています。PHP にしても、サンプルプログラムを入力しても syntax エラーを多発して苦労してました。(今でも苦労しますが)

それでもなんとか福神町の住民データベースを Web で公開するところまで自力で開発することができました。もちろん、現在の Web システムからすれば、比較にならないほどシンプルなものでしたが。

で、ようやく、今の会社の話に辿り着きます。

秋葉原の電気屋を辞めて、プログラマーとして生きて行きたいなと思った僕は、ひとつ気になった会社へ応募してみました。しかし、書類審査の段階で落ちる結果に。このとき、既に30歳。この年齢で「業務未経験」の人間を欲しがる会社なんて、そうそうありません。

次に気になったのが、今回退任した会社(仮にA社としておきます)です。募集要項には「未経験可」とは書いてあったものの、そこに期待し過ぎると書類審査で落とされそうだなと思ったので、少し策を練ることにしました。

実はこの時、A社とは別の「紹介予定派遣」を行なっている会社のサイトに、A社の募集らしき求人情報が掲載されていました。会社名こそ書かれていませんでしたが、勤務地や募集のスキル・待遇などの要項がどう見てもA社のものとしか思えません。意を決して、この紹介予定派遣の会社へ行き、今の自分のスキルチェックのテストを行なってもらい、そのテスト結果を元にA社へ紹介して貰うプランです。

派遣会社の人に「この求人が良い。ここしか行かない」とダダを捏ねて紹介してもらった結果、2000年10月からA社に派遣として勤務を開始し、その1ヶ月後には正社員として雇ってもらうことができました。多少遠回りしましたが、計画成功です(笑)

僕が入ったときは全社員で20名程度で、エンジニアは僕を入れても3名という頃です。創業時ではないけれど「ビットバレー」がどうとかこうとか、そんな時代に近いころですね。技術的には PHP3 とか PostgreSQL 6.x とかその頃の時代でした。

受託系の仕事をしたり、ASP の既存システムの改修をしたりしながら数ヶ月だったか1年程度だったか経った頃に、だんだんと既存システムへの不満が溜まっていき、「もっと使いやすいものを作ろう!」と提案したら「じゃ、お前やれ」的に任せて貰えることになりました。

ASP システムを新規でゼロから作るなんて、まるで経験がなく、かなり苦労して作りました。見積りの能力もゼロに近い状態だったので「◯月までには完成させます」という言葉も虚しく、完成が遅れに遅れて周囲に大変な迷惑をかけてしまう結果になりました。

毎日終電間際までコード書いていたり、土日でも出社していたり、(昔はあまりうるさく言われなかったので)自分のノートPC(Libretto)へ開発中のコードをコピーして、通勤電車の中でもコーディングしたりしていました。

更に上司にも助けて貰いながら、ようやくリリースすることができた時には嬉しかったのを覚えています。ただ、予定していた機能の一部は実装しきれずに次回以降のバージョンアップにさせて貰ったりしていたので、100%の満足は得られませんでした。

ここからは、この新システムの機能追加と改修を主な仕事として行いつつ、マネージャ職に昇進して、会社の方針などへも積極的に関与する立場になりました。

その後、しばらく経過した後、エンジニアの上司が退職されてしまい、実質的にエンジニア職のリーダーになりました。在籍するエンジニアの人数も徐々に増えてきて、マネジメントが必要になって来たものの、その点についての知識や経験も不足していたので、いろいろとうまくいかなかったことも沢山ありました。

また、上司が行なっていたプライバシーマーク関係の仕事を引き継いだり、新しく ISMS を取得するという方針になったため、その取得プロジェクトのメンバーになって認証関係の仕事も行うようになりました。純粋にエンジニア業とは違う、新たな仕事です。

そういう仕事の他にも ASP にちょっと大きめの新たなオプションを開発することになり、チームマネジメント業とエンジニア業と認証事務業を兼任したりもしていたのですが、種類の違う業務の並行作業がかなり負荷になっていて、一番ツライ時期でもありました。

実はこの頃に一度「会社を辞める」という宣言をしたことがあります。宣言後に社長といろいろと相談した結果、引き続き勤務させて頂くことになったのですが。

そうこうしているうちに、独立系ベンチャーだった自社が別会社へ買収され、その会社の100%子会社として事業を行なうようになりました。一定の期間の後、創業時の社長(前述の退職相談をした社長)も退任され、経営体制などが大きく変わって行きました。

変化したのは僕の立場も一緒です。社長交代後、しばらく後に取締役へのオファーを頂きました。エンジニアとして生きるか、経営者として生きるかというところでいろいろ迷いもあったのですが、会社役員という立場はなかなか経験できるものでも無いかなとも思い、有り難く就任させて頂くことにしました。

もちろんエンジニアとしてプレイしながら経営するというやり方もあったのですが、自分の状況や会社の状況を踏まえ、マネジメント方面に比重を置くことにしました。エンジニアとしての技術力を上げることよりも、会社全体をうまく回すにはどうすべきか?を中心に考えて行動するのが、この時期には最適だと考えました。

この間もこれ以後もエンジニアの採用にも関わっていました。定着してくれたメンバーもいれば、退職したメンバーもいます。前向きな退職をした方もいるのですが、後ろ向きというか、「ココは合わない」と思われてしまって退職された方もいます。うまく合わなかったことに関しては、僕の責任も強くあったはずなので、本当に申し訳ないことをしたと思っています。

反省ばかりでもアレなので、少しは成功事例も。

退任する前に大きく力を入れていたのは「品質管理」という概念を会社へ定着させることでした。以前は「開発者によるテスト」が最終テストを兼ねていて、リリース後に大きな不具合が見つかってしまうことも少なからずありました。

これをなんとかしようと考えたのが「品質管理チーム」を作るという方針です。これはサイボウズさんの品質管理(品質保証)に関するブログか何かを読んだことに強く影響を受けています。TDD 的なことをメインに据えることも考えましたが、当時の状況では開発者への投資よりも、品質管理チームという専業を作った方がより効果が高いと考え、このようにしました。

ブログにヒントを得たことから分かる通り、この分野に関しても知識や経験のないままスタートしたので、当初はうまく回りませんでした。社内からは「品質管理の人間より開発者を増やすべき」「品質管理から開発者へコンバートしたら?」などという意見も出てしまう有様でした。

それでも「絶対必要だから!」という意思の元に少しずつ改善を続けた結果、僕が退任する直前には Selenium を使った自動テストを充実させたり、PHPUnit のテストケースを書いたり、それらを Jenkin で CI してたりというところまで行っていました。

また、アプリケーション単体の品質管理の他にも「開発プロセスを向上するにはどうすれば良いか?」という点へも関与する立場になっていました。こういったプロセスに関する考え方は、開発チームとの間だけでなく、別の部署の「品質向上」に関しても影響を与えだしていました。

これらの「品質」に関する活動は、僕の成果として自慢できるポイントだと思っています。

で、まぁ、なんで辞めたのか、ですが、、、きっかけは2年前の脳出血です。今でこそ普通に生活している訳ですが、脳出血を起こして緊急入院して、手術するとかしないとかで悩んでいたころには、「死」が身近にいました。あるいは死なないまでも麻痺が残って、それまでとは違う人生の過ごし方をしなければならない可能性にビクついていました。

そのときに人生のふりかえりをしたんですよ。後悔は無いか?と。

「あの時、あれをやっておけば」みたいな後悔なんていくらでもあるんですね。その中には取り返しのつかないことも多いんですが、ひとつはまだ取り返しが付くんじゃないかな、と思うものがありました。それが前述の「エンジニアとしての技術力を上げることよりも、会社全体をうまく回すにはどうすべきか?を中心に考えて行動するのが、この時期には最適」というポイントです。

当時はその状況により諦めた「エンジニアとしての技術力を上げる」という点。ここがものすごく引っかかってしまった。

だから、今回、取締役という立場を退任させて頂くことにし、いちエンジニアとして、いま一度人生を過ごす機会を作ることにしました。同社に残ってエンジニアの立場で再就職するというプランも考えはしましたが、どうせなら新たな道で人生を開拓したいと思って、会社を離れることにしました。

いま42歳なので、いろいろと前途多難な気もしないでもないですが、まだまだ勉強を続けていきたいと思います。

みなさま、これからもよろしくお願いします。

本日のツッコミ(全1件) [ツッコミを入れる]
kashioka (2013-01-01 02:52)

リツイートから知りました(汗<br>おつかれさまでした!<br>今度、また、うまいとこ行きましょう